真宗大谷派西敬寺

「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」

『歎異抄』(『真宗聖典』p.630)

わたしたちは普段、自分の死を意識したり、深く考えたりすることはありません。むしろ、死という話題を意識的に遠ざけようとします。現代の多くの日本人にとって、死は人生のすべての終り(死ンダラオシマイ)であり、死という厳粛な事実にたいして、空虚で否定的なイメージしか持ちえないようになっているようです。

西洋には「メメント・モリ」(死を思え)という言葉があります。この言葉は、人生において常日頃から「死」を意識し、その意義を考えることの大切さを語っています。また、ある日本の作家(五木寛之)は「死を思えば元気になる」といい、「死」を見つめながら日々を暮らすことが、かえって前向きな「生」のエネルギーを生みだし、生きる力をもたらすのだ、と強調しています。

冒頭に掲げた文は、弟子唯円の疑問に答えた親鸞(1173~1262)の言葉です。経典には、「念仏するひとは踊りあがるような喜びに満たされ、光かがやく浄土にうまれることができる」と記されています。しかし唯円は、「わたしは念仏しても踊りあがるような喜びも感じなければ、また急いで浄土に参りたいという気持ちも起こりません。いったいどういう訳なのでしょうか」と、正直な思いを親鸞にうちあけます。

それに対して親鸞は、「自分の思いもまったく同じである」といって、唯円の気持ちに同調し、そして、次のように語りかけたのでした。

この世との別れをどんなに名残(なごり)おしく思っても、その縁が尽き、ちからなくして人生の終り(死)をむかえるとき、浄土には参るのです。

ここにいう「浄土」とはどのような世界のことでしょうか。一般には、ひとが死んでから行く所と思われがちですが、そうではありません。金子大栄によれば、「浄土」とは〈魂の故郷〉であり、〈生の依るところ〉であるといわれます。つまり、浄土とは、死後の世界の話ではなく、むしろ、わたしたちの人生の究極的な依りどころであり、人生の意味を明らかにするものなのです。冒頭の言葉も、死にまつわる表現をとおして、浄土のそのような意義を示そうとしたのです。

わたしたちは自らの「死」の意味を深く問うことをとおして、はじめて死によって空しく終わらないような、積極的な人生の意義を見出すことができるのでしょう。「浄土」とは、そのような生きる力の源泉のありかを教えるものです。

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