真宗大谷派西敬寺

源信げんしん)

 942(天慶5)〜1017(寛仁1) 平安中期の天台僧。大和(奈良県)の出身。幼くして比叡山に登り、後に座主となった良源に師事、13歳で得度受戒した。その秀れた才学によって33歳のとき、法華会の広学竪義(りゅうぎ)にあずかり、名声を謳(うた)われたが、いつの時か、名利を嫌って横川(よかわ)に隠棲した。隠棲後、頼まれて仏教論理学(因明(いんみょう))に関する著述をものし、また44歳の年、往生極楽の教行(きょうぎょう)こそ「末代の目足」であって、「頑魯の者」のための道であると断じて『往生要集』3巻を完成し、日本浄土教史に一大金字塔を打ちたてた。

念仏結社・著作

 やがてこれを指南とした念仏結社が生れ、源信はこの結社のために毎月15日を念仏の日と定めるなど12条の細則(起請十二箇条)を作っているが、このような規式は、源信の勧めで造られた霊山(りょうぜん)院釈迦堂についてもみられる。62歳のときには弟子寂昭(照)の入宋に託して四明知礼に『天台宗疑問二十七条』を書き、64歳の年には『大乗対倶舎抄』、翌年には『一乗要決』を著した。とくに『一乗要決』は長く争われて来た法相宗との対立に終止符を打ち、天台教学の宣揚に光彩を放つ栄を担った。源信はその住した恵心院によって世に恵心僧都(えしんそうず)と敬称されるが、実際は権少僧都に任じられた63歳の翌年、これを辞退している。(岩波仏教辞典)