真宗大谷派西敬寺

生き物たちが教えてくれること

インタビュー今泉忠明さん

 

子どもたちに人気を博し、2018年の「子どもの本総選挙」で1位になり、ベストセラーになっている『ざんねんないきもの事典』シリーズ。この本は「ざんねんないきものとは一生懸命なのに、どこかざんねんないきもののことである」という今泉忠明さんの言葉から始まります。合理的、経済的な効果を追い求め、自分の都合でさまざまないのちをはかり、意味づけようとする私たち人間。ざんねんないきものたちの姿は、私たちに何を伝えているのでしょうか。今泉さんのお話を通して、人間の相を考えます。
「ざんねん」な生き物子どもたちに生き物を紹介する切り口として、「ざんねん」ということを取り上げられたのはなぜでしょうか。
これまでは力があるとか、スピードがあるといった、動物がいかに優れているかという視点がメインで動物を取り上げることが多かったと思います。逆に人間から見て、ちょっと残念に感じてしまう、けれども一生懸命生きている、そんな新たな生き物たちの一面を知ってほしいということで作ったのが、『ざんねんないきもの事典』です。
生き物のつながりの中で、残念な部分というのは、他のものの役に立っているという視点から見ると、あっていい部分なのです。チーターは猛スピードで走って獲物を捕るように進化し、時速110キロで走ることが、できます。ところが、それだけのスピードで走るには大量の酸素を必要とするために、鼻腔が大きいのです。そうすると、牙の生えるスペースがなくなって、戦う力が非常に弱い。ですから、獲物を捕っても、しよっちゅうハイエナやライオンに横取りされています。そんな残念な部分が、結局、他の動物を養うことにつながっています。
残念な部分は、進化から取り残された部分が多いのですが、それはいざという時に強い性質を秘めていて、必要な部分だと思います。
今を生きる子どもたちの姿を見ていて思うことは、いかに「がんばれ」と言われている子が多いかということです。私たち人間は生まれ育つ時、最初にハイハイをしたり、ヨチヨチ歩きをしたりする幼少期から「がんばれ、がんばれ」と声をかけられ、知らず知らずのうちにがんばって何かを目指すという方向に考えるようになっているのではないでしょうか。そんな子どもたちが「ざんねん」という視点から見た生き物たちの姿を通して、「残念でもいいんだ」と、力が抜けてほっとしたのではないかなと思います。
そして、残念でいいという言葉の中には、自分の好きなことをやってほしいという呼びかけも入っています。自分が好きなことをやっていると、どうしても試験勉強が遅れてしまいます。それで成績が悪くなっていくということもあるかもしれません。試験勉強も大事なことだけれど、好きなことを続けてほしい。それは、好きだからこそ起こる「なぜだろう」「面白い」という好奇心を通して、自分から何かを知ろうとするからです。私自身がずっとそうやって生きてきました。子どもの頃の楽しかった経験から、生物系の仕事に進みたいと思ったことが今につながっています。ですから余計にそのことを伝えたいと思うのかもしれません。

 

強さ、弱さとは

進化の足跡をだどっていくと、自分が生きている今よりもずっと前の時代から、時間をかけて、それなりの理由があって動物たちの特性が形づくられてきたことの壮大さを感じます。恐竜が絶滅したことーつを取り上げても、強い生き物だけが生き残ってきたのではないことがわかります。動物にとっての強さや弱さとはどういうことなのでしょうか。

強さ、弱さというのは相対的なものです。近場に強いものがいれば自分はちょっと弱いけれど、周りが弱ければ自分は強い。常に順位は変動するものです。また、相対的な強さや弱さだけでなく、見かけは弱いけれど、芯が強いといった、その個体がどれだけ心の中に強さを秘めているかということも大切だと思っています。見かけが進化していっても、心の中は弱いという動物もいるわけです。逆に、進化していなくても、根性がある動物もいます。今は、見かけがかわいいとか、力が強そうといったうわべに重点が置かれているのではないでしょうか。本当は、そうではないと思うのです。表面的な部分ではなく、見えない部分、心の中に本当の姿がある。そこを見てほしいなと思います。

今も各地で争いを起こし、他よりも強くあろうと力を競う人間の姿があります。進化をとおして人間についてどのように考えておられますか。

人間は動物の仲間から進化してきたのですが、火を発明して以来、暮らし方が動物とは違ってきました。火を調理に使うことによって、食べ物を消化しやすくなり、病気の原因となる寄生虫が死にます。そして火によって暖を取ることができるようになりました。しかし、今でも毎日のように火事がありますから、人間はいまだに火を制しておらず、不完全な過程にいるのです。また、日常的に火を使うことによって長寿になったヒトは、文化の伝承ができるようになりました。おじいちゃん、おばあちゃんが経験から得た知恵を次の世代へ伝えられるようになりました。そして、次の世代は自分に伝わってきたものを土台にして、よりよい生活ができるようになり、一気に栄え始めました。ヒト以外の動物で三代にわたって伝承ができるのはゾウだけです。ゾウの雄は成長すると群れを出ていくので、おばあちゃん、お母さん、娘という女系の中で知恵が伝わっていきます。水や食べ物のある場所は季節ごとに変わりますから、「この時期はあそこに行けばいいものがある」と、おばあちゃんが歩き始める。それにみんながついていくと確かに食べ物や水があり、ますますおばあちゃんを信頼する。生きていく中で、伝承は、とても大事なことです。伝承がないと、みんなスタートから始まることになりますから、努力をしても次の世代への積み重ねができないのです。さらに知能を持つ人間は、急激な進歩をしたのだろうと思います。私たち人間の直接の祖先はクロマニョン人ですが、それまでの人類と違ったのは複雑な言葉を使えるようになったことで、これが文明や文化の発達に貢献したと言われています。その進化の中で「欲」というものが出てきます。それまでは生きるのに必死で、そのための文化を積み上げることをしてきたのが、農作物を作れるようになり、お金というものが発明されたことからそれをためようとする人が出てきたのでしょう。以来、知能が発達して複雑な感情を言葉で表現できるようになった人間は、栄えたいという欲を、文化の中でかき立ててきたのではないでしょうか。

人間の「ざんねん」な部分はどういうところでしょうか。

行動学的には、うそをつくところでしょうか。人間は非常に複雑な脳を持っていて、「こういう時は、こう言った方がこの人のためだろう」と、いいうそもつきますが、大体は悪いうそが多い。動物はうそをつきません。動物を飼うとそのことが見えてきます。イヌで言うと、イヌは人間の言うことを信じています。だから、うそをつくとイヌは怒るし、不信感を持ち、もう、人の言うことを聞くのをやめてしまいます。

身体的に「ざんねん」な部分は、よく転ぶことです。人間は脳が大きく、バランスが悪いため、歩いているだけでも転ぶことがあります。1歳から歩く練習をして、70年たっても、いまだに転んでいますね。それに付随して、足がむくんだり、腰が痛くなったりします。立ち上がれるようになって機能的に動ける分、負担がかかっていることが原因だと思います。

 

進化と環境

今、目の前にあることだけではなく、その背景や歴史を大切にしなければならないと感じました。子どもたちに動物を紹介される際にどんなことを大切にされていますか。

―つは、進化は新たな環境に適応した結果起こる現象であり、時間がたてば進化するというものではないということです。例えば、雨が毎日降るようなところで生き延びたものは、雨に強い生き物になります。逆に、何年たっても変わらない生き物もいます。約3億年前からいるオウム貝というタコの祖先がいますが、いまだに元気に泳いでいます。また、シーラカンスという魚は、6600万年前に絶滅したと思われたのですが、当時のままの姿で今もいます。ゴキブリの祖先は3億年前に現れていて、いまだに人間の台所に入り込んで走り回っています。何年たっても変わらないものは変わらないのです。

もう―つは、新しい環境に適応することはどういうことなのかということです。恐竜を見てもわかるように、環境に適応し過ぎた生き物は、環境が変わった時に、逆に絶滅します。ジャイアントパンダの「ざんねん」な点は、栄養価がほとんどない竹を一日14時間も食べていること。竹林という環境に一生懸命適応して、細々と生きています。栄えている動物は少なく、栄えなくても辛うじて生きている動物の方が多いのです。栄えている動物は、現境が変わればやがて消えていきます。そうすると、辛うじて生きていたものの中から、次の代を担う動物が出てきます。どういうふうに環境が変わるかは予測できるものではありません。環境に適応するということが進化ですが、その根底である「生きる」ということが大事だと思います。何も無理して環境に適応することはないのです。

大人の社会で言えば、環境に適応するために、会社をどんどん大きくしていったとしても、今のままなら大きな会社になるというタイミングで、環境が変わる場合があります。人間の場合は、経済的な環境が変わるということもありますから、例えばそれまで大きかった会社が、オイルショックがきっかけであっという間に滅びてしまうといった現象がありました。新しい環境に次から次へと早く適応しないと、弱くなって負けてしまうという競争社会が、今の人間の状況ではないでしょうか。その中で、あらためて好奇心が大事だなと思うのです。会社も好奇心をもっていいものを追求していく。そういう姿勢がいつの時代も大事なのかなという気がしています。これからも、子どもたちに人間らしさを感じる話を紹介していきたいと思っています。〈次号に続く〉

第781号同朋新聞2022年(令和4年)12月1日

 

人間は絶滅する?

今泉さんが監修されている『わけあって絶滅しました』では、絶滅した生き物たちが自らの絶滅理由を語っています。人間もいずれ絶滅する可能性があるのでしょうか。

今のままだったら、人間は確実に絶滅すると思います。人間は、生きるための知恵や文化を伝承し、栄えてきました。しかし、お金が発明されて以降、欲が出てきて生きること以上にもっと栄えたいという欲を文化の中でかきたててきたのではないでしょうか。その中で人間関係がぎくしゃくしてきているのではないかと思います。少し前までは、安心して山を歩けたり、ドアに鍵をかけなくても不安がないという文化がありました。それが、今は人と人とのつながりも薄くなってしまって「人を見たら泥棒だと思え」と、人を疑うようになってしまっています。

もし「地球に星がぶつかって絶滅する」となった時でも、みんなで他の星に移住すれば人間は絶滅することはないでしょう。しかし今は、その宇宙船を横取りする欲深い人がいるような状況ではないでしょうか。戦争もそうですが、自分のことしか考えないという人間のエゴによって絶滅に向かってしまうのではないかと思います。

人間の特性は、思いやりです。人間は次の世代にいのちをつないでいくために何ができるだろうと考えて行動する「いい人」がもっと多かったのではないかと思います。おじいちゃん、おばあちゃんは孫のためなら、自分の思いを超えて何かをしてあげたいと行動することが多いのではないでしょうか。他者を思って行動する。そういう人が増えていくことを願っていますし、きっとそういう世界になるのではないかという気がしているのです。

 

動物は葬送しない

人間の特性は思いやり。他者の存在に目を向けるということはとても大切なことだと思います。動物と人間の違いについてもう少しお尋ねしたいのですが、動物に死生観というようなものはあるのでしょうか。

動物に他のものを悼むという気持ちはありません。ゾウが仲間の遺体に近寄ったり触れたりする様子を「ゾウの葬式」とテレビで流れることがありますが、それは亡くなった仲間のことを、いつまでも寝ていて、いつもと様子が違うと思って、起きるのを待っているだけなのです。子ゾウが死んだ時も、そばにずっとお母さんがいます。でもある日、子ゾウが腐り始めると「これは違うな」とお母さんは、そこから去ります。チンパンジーも自分の赤ちゃんが死んだ時、腐るまで抱っこしています。動物はいつもと違うという感覚はありますが、死を理解していないのです。

死を理解できるのは、人間だけなのですね。動物と人間の違いとして、葬送を行うかどうかという考えもありますが、どのように考えることができるでしょうか。

さまざまな説がありますが、動物と一緒で死を理解していなかったと言われる人間は、約3万年前に死を理解し始めたと言われています。イラクの北部の遺跡から発掘されたシャニダール人の埋葬跡の周りの土を調べると、たくさんの花粉が確認されました。花粉を分析していくと、キクの仲間の花が埋葬に使われたことがわかりました。そして、死者に花を手向けたのではないかという説が出て、さらに調査したところ、薬草の花粉であることや、季節が秋だということもわかりました。その頃、人間が死をわかりだしたと言われています。

また、お葬式をするのは人間だけです。伝承を通して、今までいろんな知恵を教えてくれたおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなって、それを送るということは、感謝の気持ちがあるからこそであり、それがお葬式という形になってあらわれているのだと思います。しかし、現代は葬送はいらないという風潮もあるようです。今を生きる私たちは、どこか自分一人の力で生きていると思い込んでいるのかもしれません。「この人がいたからこそ自分が存在できているのだ」ということをゆっくりと考える場や時。そして、そのことを周りの人たちと共有することをあらためて大切にしたいと思うのです。感謝する気持ちがなくなったら、人間は人間でなくなってしまうのではないでしょうか。

生物学は、生命の起源を探究する学問ですが、どうしたらいのちが存在するのかということが、まだわかっていないのです。DNAの構造はわかっても、そこにいのちは入っていない、つまり、生きていないのです。生きるということが、いまだにわからないのです。また、同じような傷を負っても、なくなる人と生きている人がいます。ある時、急になくなってしまういのち。私たち人間は、最後は必ず死ぬということをたたき込まれていないように思います。小さい頃から、人はやがて死ぬ、必ず死ぬのだということを普段の生活の中で伝えていかなければならないのではないでしょうか。

死を学び伝えるために具体的に実践できることは何でしょうか。

一番は、ペットを飼うことです。ペットは自分より寿命が短い。いのちがなくなることを感じることができます。子どもは、死ぬということを怖がるかもしれません。しかし、生き物というのはいつか死ぬんだということを暗に思う、そのことが大事ではないかと思います。

私たち大人が、子どもたちにどんな情報を伝えていくのかが大切なのですね。

そうですね。大人が、これは汚い、怖い、危ないと言えば、必ずそれは子どもに伝わっていくのです。大昔は、これが安全につながったのでしょう。生き物とのふれあいについて言えば、子どもたちは好奇心が勝っていますから、自分から動物と触れあおうとします。それを大人の判断でやめなさいと言ってしまうと、子どもたちが不必要に怖がったり、嫌がったりする状況が生まれてしまいます。

また、人間が新しいことを身につけていくことが進歩であり、発展であると思ってはいないでしょうか。昔からの知恵や文化を伝えようと思っても「時代が違う」と聞かない風潮があるように思います。「こうしろ、ああしろ」とただ口うるさいだけなのと、文化を伝えるといううるささは、同じうるささでも質が異なると思います。

 

生きる意義

人間は、平均寿命が約80年です。動物にはひと夏のいのちという種もあります。今泉さんは多くの動物を研究される中で、生まれて、生きるということの意義について感じられることはありますか。

生物のDNAに組み込まれているのは、増えるということです。動物が生きるということは子孫を残し、増えるということです。人間はそれだけではなく、文化を伝えるということがあります。人間の特性である思いやりや感謝の気持ちを大切にしてほしい。そのことを子どもたちに伝えていきたいと思っています。

ミツバチの集団の2割はさぼっていると言われています。働き蜂がせっせと働いているのだけど、2割はさぼっている。「ざんねん」なハチたちがいるということが最近わかりました。その2割を取り除くと、また別の2割がさぼりだします。常に2割がさぼっているのです。その2割のハチは何のためにいるのかというと、種が絶滅しないために、敵に会って全滅しそうになると、復活するのです。種の全滅を免れるのは、サボっていたハチたちがどこかへ行って時間をつぶして帰ってきて、「みんな、いないじゃないか」と、もう一度作り直すことができるからなのです。

生き物の残念な部分というのは、他のものの役に立っているという意味では、常に役に立ちますし、あっていいのです。むしろ、残念なところが何もない生き物はいないと思います。

また、『ざんねんないきもの事典』では、さまざまな生き物の多様性を紹介してきました。人間も同じで、いろいろな人がいていいのです。

そして、強者だけが繁栄するのではなく、小さいもの、弱いものが生き残るためにそれぞれ工夫して、一生懸命に生きている様子も紹介してきました。だから人間も、誰かと自分を比べて必要以上にがんばらなくてもいいと思います。好きなことを見つけて、「なぜだろう」「面白い」という好奇心を大切に、自分から何かを知ることを楽しんでほしいと思います。

あらためて生き物の不思議さ、いのちの営みについて教えていただきました。ありがとうございました。

 

第782号同朋新聞2023年(令和5年)1月1日

 

今泉忠明(いまいずみただあき)動物学者。1944年東京都生まれ。東京水産大学(現東京海洋大学)卒業。国立科学博物館で哺乳類の分類学・生態学を学ぶ。文部省(現文部科学省)の国際生物学事業計画(IBP) 調査、環境庁(現環境省)のイリオモテヤマネコの生態調査等に参加。上野動物園の動物解説員、ねこの博物館館長,日本動物科学研究所所長などを歴任。ベストセラー『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)のほか、多くの図鑑監修を手がける。