西敬寺は真宗大谷派(本山東本願寺)の寺院で親鸞聖人の教えを伝え昔から代々世襲です。初代住職慶順法師は別符小三郎清成といい別符氏十五代の人です。別符氏は藤原鎌足より十八代に当る別符次郎行隆を祖とします。別符家は今日まで保存され伝えられた、文化財指定「静岡市別符家文書」 「別符系図」によって知られるように中世即ち鎌倉、南北朝、室町にかけての武将であり別符幸時、幸実、幸忠、など多くの武将が活躍しています。その文書の中でも後醍醐天皇の綸旨雑訴決断所牒足利尊氏御判御教書は歴史上重要な資料です。また行隆(義重)その子能幸(清重)父子は建久時代に大いに活躍し、清重は「平家物語」の老馬の項に出てくる人で、源義経に従い一ノ谷鵯越の険に向って軍功を顕わした人と伝えられています。

別符氏は十二代尾張守長清まで武蔵国(埼玉県)東別符に城を構えた豪族で広大な領地を支配していました。この尾張守長清は天正十八年成田氏長と共に小田原城において豊臣秀吉の軍と戦いついに現埼玉県行田市にある忍城に落ち伸びましたが、ここで石田三成の水攻にあい、ついに開城しました。この忍城から正中三年刻の十字の名号「帰命尽十方無碍光如来」の石塔婆が発見され、成田、別符一族は早い頃から真宗の信徒であったことが知られます。武士を捨てた一族の数名は真宗の名刹三河の勝鬘寺の門に入り仏弟子となり、一人は三河に法蔵寺を開き、一人は慶順となり西敬寺を創立し浜松を経て駿府に移りました。はじめ駿府七間町札の辻(古記録には「刀が辻」とある)に道場を建て念仏をひろめていましたが、お城に近いという理由で清水入江の庄に四石八斗の地を家康から拝領してここに移りました。しかし駿府檀用に不便を感じたため再び駿府新通りに寺地を求め、一寺を建立いたしました(現新通小学校のところ)。その後正徳五年に新通り上大工町の医者柳庵より出火し、これが大火となり西敬寺も全焼。その後一年半で本通六丁目に七間半四面の本堂を建立しました(了察法師)この本堂は昭和二十年六月戦災で消失しました。すぐに八畳四間ほどの仮本堂をたて三十数年本通六丁目で法務をつとめていましたが、静岡市区画整理事業に協力し、ほぼ四百年あまり住んでいた本通から現在の大谷に昭和五十四年十二月一日より西敬寺域を移し、法務を始めています。以上のように処々方々転々としましたが、家康より拝領の地、清水入江の庄を山号とし、入江山西敬寺と申します。

【法宝物】・阿弥陀如来(鎌倉時代)・小弥勒菩薩金銅佛(中国景雲二年。西暦七一二年)・親鸞聖人九字名号・方便法身尊形一貫代(明応六年四月二十八日実如御判)・蓮如上人真筆名号・宣如上人御消息三巻・観世緯錦(打敷)・本願寺親鸞聖人御影一貫代(慶長五年八月二十八日、本願寺准如、大谷本願寺教如、東、西法主二名の裏書ある貴重なもの)・顕如上人御影一貫代(慶長二年八月二十四日)寺社奉行その他に関する書状七十通余 【宝物】・別符家古文書(二十通)市文化財指定・別符家古印(糸印)・東照宮ご祭礼絵巻・石州公御作竹花器・千利休御作竹花器・長者石(据え付け、正徳年間)其他・山田長政供養塔・掘部安兵衝の姉の墓