「病の恐れは生きものにおしなべてあるのか」

アシュヴァゴーシャ(『ブッダチャリタ』原始仏典 第10巻 講談社 31頁)

 

仏陀(buddha 目覚めた者)は、わたしたちにとってどういう意味を持つのでしょうか。いかなる歩みをへて仏陀がこの世に出現したのか十分に語ることができれば、この問いに答えられるのではないかと考えた人たちがいました。そこで、仏陀の伝記あるいは仏陀の過去世の物語(ジャータカ物語)が描かれるようになります。仏陀の出現の意味を問うことに視点をおいた物語の誕生は、「ゴータマが仏陀である」ことの根拠は何かという問いが明確に表明された瞬間であると言うこともできましょう。

 こうして構想された物語のなかに、国王の息子として生まれた青年ゴータマが宮殿の外に出たときに、老人や病人や死人、そして沙門(求道者)の姿を見るという場面が描かれています。いわゆる四門出遊の物語です。そのなかで、ゴータマは病人の姿に接し、これまで見たことのないその様子に驚き、そばに仕える御者に、あの者は誰か、と尋ねます。御者は、かつては壮健だったにもかかわらず、いまは身体の自由がきかなくなり、あのような姿をしているのは、病という大きな不幸のせいなのだ、と答えます。すると、ゴータマは「病の恐れは生きものにおしなべてあるのか」と、この標記の言葉を御者に投げかけます。御者はこう返答します。これは人に共通のものだと。そして、人は病におしつぶされ苦痛にあえぐということがあるのに、一方では平気でいて人生を楽しむのだと。

 わたしたちの日常には「今を楽しもう」という言葉があふれています。それは楽しめないような状況があることの裏返しでもありましょう。楽しむことは人をいきいきとさせる原動力そのものですが、楽しむことで覆い隠されてしまうものを、楽しむという態度からすくいとられずこぼれ落ちてしまうものを、ゴータマは見つめようとしたと言えます。標記の言葉には、苦悩に直面してもなお刹那的な楽しみを生きる拠り所にするのか、という問いかけが暗示されています。だからこそ、次にわたしたちはこう問わなければならないでしょう。では、わたしは何を拠り所にして生きていくべきなのでしょうかと。仏陀の意味を問うてきた人たちにとって、最も大切で根本的な問いがここにあるのです。

 

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 こうして構想された物語のなかに、国王の息子として生まれた青年ゴータマが宮殿の外に出たときに、老人や病人や死人、そして沙門(求道者)の姿を見るという場面が描かれています。いわゆる四門出遊の物語です。そのなかで、ゴータマは病人の姿に接し、これまで見たことのないその様子に驚き、そばに仕える御者に、あの者は誰か、と尋ねます。御者は、かつては壮健だったにもかかわらず、いまは身体の自由がきかなくなり、あのような姿をしているのは、病という大きな不幸のせいなのだ、と答えます。すると、ゴータマは「病の恐れは生きものにおしなべてあるのか」と、この標記の言葉を御者に投げかけます。御者はこう返答します。これは人に共通のものだと。そして、人は病におしつぶされ苦痛にあえぐということがあるのに、一方では平気でいて人生を楽しむのだと。