「きみ自身のことなど考えるな。遠くを見よ。」

 

アラン(『プロポ1』 みすず書房 78)頁

 

 

 20年近く前、まだ定職もなく暮らしていた頃、「これからいったいどうなるんだろう」とふと大きな不安に駆られたことがあります。アルバイトに行く道すがら、大きな交差点で信号を待ちながら、自分ひとりだけがポツンと宙に浮いたような奇妙な孤独感でした。その時、本当にたまたま私は真上を見ました。目に入ったのは抜けるように真っ青な快晴の空です。その瞬間、卑近な言い方ではありますが「寄った目」が戻るような不思議な感覚がありました。自分を取り囲むどうにもならない状況を必死に見極めようとしていた私の上には、ただ青く広い空がありました。私がいなくなっても、この空はきっと何も変わらずそこにあるでしょう。そう思ったら、苦しく固く結ばれていた何かがすっと少しだけ解けるように感じたのです。

 フランスの哲学者アラン(1868-1951)は、生涯を高等学校の教師として過ごしました。新聞紙上に「プロポ」と呼ばれる短いエッセイを書き続け、その一部を集めた『幸福論』は日本でもよく知られています。標題のことばは「遠くを見よ」というタイトルのプロポにある一節で、『幸福論』にも収められています。

 そこでアランは「意志の力でリラックスしようとしてもだめだ」と言っています。落ち着かなければ、力を抜かなければと必死に思い続ける限り、逆に緊張は募るばかりです。そんな時には遠くを見なさいと彼は言います。人間の目は近くをじっと見つめるようにはできておらず、広い空間に向けられてはじめてくつろぎます。そして、身体がくつろげば心も必ずくつろぐのです。

 しかし、アランは話をここで終えず、次のように続けます。「本当に知るということは目の前にある小さな物事には決して戻らない。なぜなら、知るとは、どんな小さなものでも全体とつながっているというその有様を理解することだからだ」。どんな小さなものでも全体とつながっている—これはいったいどういうことでしょうか。あの時、「これからどうなるんだろう」という私の問題はじつは消えたわけではありませんでした。その問題は消えぬまま、しかし私の身体は何かもっと「遠く」と一瞬つながり、そのおかげでほっと息をついたのです。私はいったい何とつながったのでしょう。あの一瞬の「遠く」とは何だったのでしょうか。ふと遠くを見て息をつく瞬間がもしあなたにもあるとしたら、その感覚を大切にして、あなた自身の「遠く」へと少しだけ思いを馳せてみてほしいと思います。

 

 

 

 

 

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