天命に安んして

日常の事業に

専就精励することを

得るに至る

標記のことばは、本学(大谷大学)の初代学長であり、明治を代表する哲学者清沢満之のことばです。

 私たちは、故事にあるように「人事を尽くして天命を待つ」ということばを使います。自分が出来る精一杯のことをやってそのあと結果については、天の意志に任せるということです。これは自分が努力したあとのことは、結果がどうであれそれは運命にゆだね、良い結果を期待するという意味で使います。しかし、運命として天命に結果をゆだねることは、良い結果が得られれば、自分を誉め、思うような結果が得られなければ、運命のせいだと責任転嫁してあきらめてしまうような生き方につながりかねません。

 清沢は、天命とはそのようなことばではなく、私たち自身がどういういのちを生きているのかということについて、はっきりとした目覚めを持ち、その私たちの生存の根拠をあらわすことばであるととらえます。私たちはだれもが幸福を求めて生きています。しかしその幸福の尺度は、他と自分を比較し、より多くの物質的豊かさを享受しているかどうかということに置き換わってしまっているのではないでしょうか。その結果、競争原理に振り回され、誰かに足元をすくわれるのではないかと戦々恐々とし、疑心暗鬼になって、却って幸福とはほど遠い社会になっているのではないでしょうか。

 清沢は、日本が近代資本主義の道に邁進しようとする明治にあって、現代へとつながる人間の有り様を凝視しました。そしてどのような時代社会や環境を生きるものであっても、平等なるいのちを生きるものとして互いの尊厳を尊重し合う社会の実現を志向したのです。そのためには、損得や勝ち負けを超えて一人ひとりを支えている根拠を見出す必要があるとし、それを天命に安んじると表現したのです。

 清沢にとって、その根拠としての天命は親鸞が開顕した浄土真宗という仏道における阿弥陀如来の本願にほかなりませんでした。それは誰一人漏れることなく等しく苦しみから超えさせていくと誓った仏の願いです。標記のことばを通して清沢は、「天命に安んじ」るということこそが、「日常の事業」つまり日々の仕事や生活に向き合い励むことが出来るための根本なのではないかと、私たちに問いかけているのです。

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