〈出来事〉が人間に帰属するのではない。人間が〈出来事〉に帰属しているのだ。

岡真理(『記憶/物語』 岩波書店 101-102頁)

 

 

  標題のことばを書いた岡真理(1960―)はアラブ文学を専門とする研究者です。中東のパレスチナ問題に深く関わりながら難民を助けるさまざまな活動をし、「人間の尊厳」を頭の中の絵空事としてではなく現実の問題として真正面から考えようとしている人々の一人です。「人間の尊厳」とは、とても平たく言えば「他人を本当に大切にできるか」という問題です。他人とは「私ではない、違う誰か」です。それゆえ「人間の尊厳」という一見堅苦しい言葉の中には、「私とはまったく異質な相手を受け入れ、その苦しみを理解するとはどういうことか。そんなことが本当に私にできるのか」というむずかしい現実の問いが含まれているのです。

 岡はここで、とても言葉にできないような恐ろしい〈出来事〉が人を襲う場合を取り上げています(たとえば津波で大切な家族を目の前で失うような経験がそれにあたるかもしれません)。このような〈出来事〉に襲われた人は言葉を奪われ、絶句します。その〈出来事〉を語る言葉は当人自身にさえありません。この時、人は〈出来事〉に襲われ、呑み込まれ、その〈出来事〉に所有されてしまいます。〈出来事〉が人に属すのではなく(普通はそう考えられますが)、人の方が〈出来事〉に属してしまうのです。標題のことばはそのような事態を語っています。

 このような経験をした人の苦しみを私たちは理解できるでしょうか。当人でさえ言葉を奪われ、自分に何が降りかかったかを語ることができないような〈出来事〉の中身を、当人ではない人間がどうして詳細に知ることができるでしょうか。そのようなことはできないでしょう。だとすれば、私たちにできるのは、言葉にならない苦しみにその人が襲われているというそのことを—ただそのことだけを—分かち合うことではないでしょうか。これはとても辛いことです。なぜなら、それは苦しむ人の傍に、その苦しみにどんな解釈も加えることなくひたすらじっと留まり続けることだからです。そして、そうした恐ろしい〈出来事〉がじつはあらゆる人を(私たちをも)襲いうるという事実から決して目を背けずにいることだからです。

 ですが、逆に考えてみてください。自分が本当に苦しい時、傍にいてほしいのはそのような「誰か」ではないでしょうか。標題のことばは人を襲う苦しみの本質を指し示すと同時に、私たちにできるさまざまな具体的支援えま

す。

 

 

 

 

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