龍樹

(150〜250)頃。ナーガールジュナ。初期大乗仏教を確立した大論師。南インドに生まれ、婆羅門の学問をすべて習得したのち仏教に転じて、北インドに移り、当時の部派仏教と初期大乗とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁した。御命日18日

天親

世親。ヴァスバンドゥ。4〜5世紀頃。現在のパキスタンのPeshawarの人。弥勒→無着→世親とつづく唯識派三大論師の一人。無着の弟。無着と同じく初め小乗仏教(説一切有部)を学び、そのすぐれた学才によって名声をえたが、後に無着に感化されて大乗に転向し、唯識思想を組織大成した。著書としては、小乗時代に著した倶舎論、大乗転向後の唯識二十論大乗成業論大乗五蘊論大乗百法明門論仏性論など、さらには中辺分別論大乗荘厳経論摂大乗論などに対する註釈書がある。とくにその主著唯識三十頌はその後多くの論師によって註釈され、それら諸註釈を織り込んで玄奘が成唯識論にまとめあげるに及び、法相宗の所依の論書となるにいたった。御命日3日

曇鸞

(476〜542)とするが、明らかでない。およそその頃、北魏後半から北斉時代にかけての人ではないかとされている。浄土五祖の第一、真宗七高僧の第三、北魏時代には、中国三大石窟中二つの石窟(雲岡と竜門)の造営に見るように仏教が盛行し、曇鸞出生の当時には、浄土教所依の経典、浄土三部経が訳出され、竜樹の十住毘婆沙論や世親の無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)も訳されていた。特に大乗仏教の空観が盛んであった。御命日7日

道綽

(562〜645)中国浄土教の祖師。浄土五祖の第二、また真宗七高僧の第四。西河禅師とも呼ばれる。十四歳で出家し、涅槃経の学習に没頭。三十歳を過ぎて、山間に持戒堅固な教団を結成した慧さん禅師の傘下に入り、戒律と禅定の実践に十数年はげむ。禅師没後、609年、石壁玄中寺に曇鸞の碑文を見て浄土教に回心した。観無量寿経を講ずること二百回、日に七万遍の念仏を称えたという。小豆で数をかぞえる〈小豆念仏〉をすすめた。曇鸞の浄土論註を継承した安楽集の著作がある。御命日27日

善導

(613〜681)中国浄土教の大成者。浄土五祖の第三、真宗七高僧の第五に数えられる。終南大師、光明寺の和尚とも呼ばれる。山東省臨しの出身。出生の直前は大の崇仏家であった隋の文帝の時代であり、天台の開祖智は善導出生の十六年前に没し、また道綽は善導出生の四年前に浄土教に帰依。三論再興の祖吉蔵や訳経史上著名な玄奘はなお善導と同時代に活躍しており、善導が最も活動したのは、唐の国運隆盛のピークであった太宗・高宗の時代であった。御命日27日

源信

(942〜1017)(天慶5〜寛仁1)

平安中期の天台僧。大和(奈良県)の出身。幼くして比叡山に登り、後に座主となった良源に師事、十三歳で得度受戒した。その秀れた才学によって三十三歳のとき、法華会の広学竪義にあずかり、名声を謳われたが、いつの時か、名利を嫌って横川に隠棲した。隠棲後,頼まれて仏教論理学(因明)に関する著述をものし、また四十四歳の年、往生極楽の教行こそ末代の目足であって、頑魯の者のための道であると断じて往生要集3巻を完成し、日本浄土教史に一大金字塔を打ちたてた。御命日10日

源空(法然)

(1133〜1212)(長承2〜建暦2) 浄土宗の開祖。美作(岡山県)の人。押領使漆間時国の子で、幼名を勢至丸といった。九歳のとき父は夜討に遭うが、遺誡により仇討を断念。十三歳で比叡山に登り、十五歳のとき皇円について出家。1150年(久安6)十八歳のとき、西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空をたずねて弟子となり、法然坊源空と名を改める。それより約二十五年間叡空につき、その間、京都はもとより南都(奈良)にも足を運んで学僧たちを歴訪するなど、研鑽を積んだ。御命日25日

以上岩波仏教辞典による